特別支援学校で図工・美術を教えることになった先生は本当に大変だと思います。
なにせ、大学でそんなことを教わった人は、実は殆どいないのですから。
では、いったい、どうしたらいいのでしょう?
それでは、この記事を読んで解決しましょう。
知的と肢体不自由の違い
この業界以外の人は、まず知らないと思いますが特別支援学校は5種類あります。
聾(聴覚障害)、盲(視覚障害)、知的、肢体不自由、病弱の5つです。
実は、このうち、人数が圧倒的に多いのは知的障害児です。
児童数 | ||||||||
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計 | 知的障害 | 肢体不自由 | 病弱・身体虚弱 | 弱視 | 難聴 | 言語障害 | 情緒障害 | |
総計 | 78,856人 | 44,228人 | 3,015人 | 1,346人 | 245人 | 865人 | 1,223人 | 27,934人 |
さて、よく誤解されるのが
『つまり知的の学校には知的障害の子どもたちがいて、肢体校には手足が不自由な子どもたちが通うんでしょ?』
というものです。
それは間違いではないのですが、正しくもありません。
正確にいうと肢体不自由校とは、
肢体が不自由で、かつほとんどの場合、知的障害もある子どもたちが通う学校
なのです。全盲の子も難聴の子も、肢体が不自由ならきます。
また知的障害のない、或はすごく軽い子どももいます。
つまり知的な発達段階では同じでも、普通に動ける子どもは知的校に通いますし、通常校に入れる知力・学力があっても、体に障害がある子どもは肢体校に通います。
また知的障害があってもなくても、病気や障害で入院してたり、通学できない子どもは、病院の院内学級などで学ぶことがあります。(これが病弱)
当然、学校も知的不自由校と言われる学校が規模も数も多いので、教師も沢山いますし、参考図書もそれなりにたくさんあります。
さて、ここがポイント、問題なのです。
私が初めて肢体不自由校の教師になった当初。
授業をどうやって作っていいかわからず、まず図書館や大きい書店にいきました。
そこには数冊「特別支援の美術」とか「障害児の図工」といった本があったのですが、全て知的障害向けでした。(当然と言えば当然ですが、肢体不自由校は圧倒的に少ないので、本の需要も少ないのです)。
そしてそれらの本は、肢体不自由児には、全く使えないものだったのです。
なぜなら、知的の生徒は自閉症、ダウン症と色々いても、みな基本、自分で手を動かし、絵を描いたり粘土をこねて、作業ができます。(ちなみにそのおかげで、作業所などの進路先があり、就職にも強いです)
しかし、肢体不自由児は、そもそも手が動かなかったり、全身が麻痺して寝たきりだったり、話をきいてもまったく反応が見られない子もいます。
(結構手が動かせたり、高度な会話もできる子もいるので、さらにややこしくなります)
肢体不自由児の難しさ
こうなると、たいていの美術教師は無力感におそわれると思います。
私もそれまでは通常児相手に、主に手を使って描かせたり、工作をさせたりと、いわゆる普通の美術の授業をしてきました。
当然、説明もしますし、雑談で面白いエピソードを入れたり、ちょっとだけ現代美術を紹介したり、昔の有名な画家を紹介して、子どもたちの興味を惹きつけることもありました。
そして中高生には
「美術で絵を描くことは、君たちの手と眼をトレーニングしていることなんだ。絵がうまくなるということは、手と眼の神経がうまくつながることなんだよ」
と言ってきました。
しかし。 ここでは、全てが通用しません。
まず、手がうごかない子がいます。
動いても、一方向で、5センチだけ、という子もいます。
それを動くようにする自立訓練という時間もありますが、個人差もありますし、それが美術授業の目的とは思えません。
話をしても、まったく理解できない子もいます。
そもそも重度の子には、言葉自体通じているかどうか、わからない子も多く、まぶたを開けながら寝ている子もいます。
小学校低学年程度のおはなしなら分かる子もいます。2歳くらいの言葉を発する子もいます。
さらに、同じクラスには比較的手は自由に動くけど、繊細な力加減ができず、しかもちょっとしたことで怒りが爆発して暴れる子もいます。
さあ、こんなクラスであなたが美術教師だったら、何を教えますか?
途方に暮れて
私は正直、途方にくれました。
それでも美術教師として採用され、学校に招かれたのですから、何かしらしないわけにはいきません。
悩んだ挙句、シュタイナー学校時代の経験を思い出して、幼児でも失敗のすくない『にじみ絵』という技法から、授業づくりをはじめました。
正直、これも難しい子もいたのですが、少しでも手の動きがあれば、教員が補助しながらでも、作品が完成する優れた題材です。
しかも短時間なので、生徒の集中力も体力も、もちます。
さらに完成した作品は、思わずため息が出るほどの美しさで、生徒自身も、親御さんも「こんなに絵が上手くかけたのは初めて」と喜んでくれました。
この『にじみ絵』の技法は、それからも私の主力授業ネタとして活躍していくのですが、さすがに一年中そればっかりというわけにはいきません。
それからも、シュタイナー学校やシュタイナー幼稚園、学生時代の現代美術のさまざまな試みの中で面白そうなものを拾い上げ、独自に子ども向きに改良したり、あるいはヒントを生かして新しく作ったりと、徐々に授業のレパートリーは増えていきました。
ジュウチョウの美術とは
ところが、肢体不自由校に赴任して3年目、また大きな壁にぶつかりました。
それまでは、知的にも手足の可動域も、ある程度はできるグループで主に教えていたのですが、その年は発達段階では一番重い、いわゆる『ジュウチョウ(重度重複障害)』のクラスになったのです。
ちょっと説明しますと、まず、重複障害者とは「視覚障害、聴覚障害、知的障害、肢体不自由、病弱」のうち2つ以上の障害を合わせ持つ障害者の事を指します(*学校教育現場上の場合)。これが「重度重複障害者」になると、「重度の知的障害(発達障害)を伴う重複障害者」になります。
私が受けもったクラスは8人のグループでしたが、言っていることがほぼ通じる子はわずか一人。声は出せるけど、言葉がでない子が2人。
あとの子は表情や視線の動き、手がぴくっと反応したから、何とかコミュニケーションをとれる子です。(本当にわかっているかは、正直謎です。)
さらに全盲で、やや難聴の子が一人。
目はよく動くけど完全に聴覚がない子が一人。
手が完全に動かない子が一人。少し動く子が三人。
動きすぎて食器も筆も投げつけて、近くによると爪をたてる暴れん坊も一人いました。
それまでのグループは、障害がありつつも、体のどこかしらが動かせたので、それを使って作品を自力でつくる、というところに焦点を当ててきたのですが、ここにきて、全く考えを改めなければならなくなったのです。
しかし、それは同時に新たな気づきのきっかけでした。
今思えば、様々なタイプの子どもがいたおかげで、私の美術の授業はどんなタイプの人にも対応できるよう、進化したような気がします。
見えてきた美術の本質
障害児の世界ではよく『自立と社会参加』こそが、一番の教育目的だとされています。
ですから美術でいえば、どんな障害があっても「自分で」描いた絵、「自分で」作ったねんど作品、が目標だったり、高い評価を受けたりします。
それは特にアウトサイダーアートと言われる、知的障害者や精神障害者の作品が、普通の人にはできないような高い芸術性を備えていることで、一般にも認知されており、そういった作品は「個性あふれる」とか「感性がすごい」とか言われます。
私も、ずっとそれを疑ったことはありませんでした。
むしろ、小学校の時、自分の描いている絵を先生が手直しして、余計変になったことを今でも恨んでいるくらい「自分の作品を自分でかく」のが当たり前でした。
しかし、世の中には完全に体が動かず、自分では描けない人もいるのです。
それでも世の肢体不自由校の教師の多くは、自立を目指して何とか「○○ちゃんが自分で描いた作品」を目指します。
ほんのわずかな動きをいかして、たとえばiPadのお絵かきアプリを使って、謎のなぐりがきを抽象画っぽい作品に仕立てたりします。
あるいは、ちょんと指で押せばバケツの色水を床にぶちまける仕掛けを作り、ドリッピングもどきの作品にしたりして『これは本人が作ったんです!』と言っています。
それが悪いといっているのではありません。
肢体不自由校では、多かれ少なかれ、そのような授業しかできない部分があるのです。
確かに私がやっていたにじみ絵も、マーブリングも、偶然の要素が大きい課題です。
けれど、手が1㎜も動かない子は? 「ちょん」もできない子は?
”自分の作品”はつくれないのでしょうか。
いや、そもそも、”自分で作品をつくる”ことだけが、美術の本質なのでしょうか。
いいかえれば、意思疎通も難しい、体が完全に動かない人は、美術の世界に触れることはできないのでしょうか。
「そんなはずはない・・美術は、アートは、もっと豊かで、全ての人が楽しめるものだ」
私は、考えをあらためて、一から授業の構成を作り直し始めました。
私にとって、美術はずっと表現でした。何かを見て、感動して、作品として表現し、感動を共有したい、ということが、美術やアートでした。
しかし、同時に思いだすことがありました。
まだ、幼稚園に入る前のおぼろげな記憶ですが、その頃、私と両親は横浜の白楽という下町の借家に住んでいました。古い木造の日本家屋です。
ときどき、まだ若かった父が、陽の当たる玄関に座って私を膝に乗せ、一緒にプラモデルを作ってくれたのです。
それは、私の一番古い、楽しい記憶の一つです。
私は優しく、よく遊んでくれる父が大好きで、幸せいっぱいに工作を楽しんでいました。それは今でも宝石のような甘い記憶として残っています。
しかし、今思えば、当時の私はあまりに幼く、プラモデルをわずかでも作れたとは思えないのです。
小学校に上がって、私は大のプラモデル好きとなり、戦車やら戦闘機、戦艦など手あたり次第作るようになりましたが、それでも相当苦労していました。
それなのに、今でも2歳の私が、父と一緒にプラモデルをつくった楽しい思い出として残っているのです。
その原風景があるからこそ、私は美術の道に入ったような気がします。
そして。私は思いました。
「自分」でつくることだけが大切なんじゃない。
自分で、できなければ、ほぼ全て、いや100%丸投げしてもいい。
誰かが、自分を愛してくれて、自分の為にいろいろ考えて準備してくれて、モノを作る楽しい時間を共有するってこと、それだってアートと呼んでもいいんじゃないか。
おそらくほとんど父が作ったプラモデルは、私の作品として、大人からほめられ、私も自慢にしたはずです。
何を作ったかは全く覚えてなくても、褒められてうれしかった気持ちは忘れていません。
そして、私は制作自体や作品よりも「様々な感覚をフルにつかって、面白い体験をすること」を重視しはじめました。
まず、全盲の子どもには色や線の形は理解できません。
だから、毎回触覚と音を授業に取り入れました。
美術の授業なのに、鰹節から出汁をとって、匂いと味を体験したあと、それで水彩画を描いたこともあります。
かわくと、とてもいい匂いのする作品になり、現代美術から学んだ”なんでもあり”の遊び心です。
難聴や、全盲や、認知もいろんな幅があるので授業の最初に、教員が全員参加で短い劇を演じました。
毎回、台本を作り、衣装や小道具をつくり、練習なしのぶっつけ本番です。
演技も、教師が必死になって感情を込めてセリフを言うと、ふだん殆ど反応を見せない子も、ニコッと笑うようになりました。
しだいに教師も演技がうまくなり、劇も歌や踊りをふんだんに盛り込んだミュージカル調になり、大うけです。
(ちなみに研究授業では指導教官に「これは美術といえるの?」と叱られましたが、演劇は芸術に決まってるでしょう?)
耳のほぼ聞こえない子には、動きや色を楽しめるような工夫。その他にも扇風機で風をあてたり、霧吹きで水滴を浴びたり、車いすでダンスをして、さまざまな体験をしつつ、ついでに作品ができちゃった、みたいなこともやりました。
面白かったのは、いろんな食材で絵を描こう、というシリーズで、毎回こんにゃくで描いたり、イカのゲソでかいたりしてたのです。
ある日、触覚過敏で何かに触れることが苦手な子が、茹でた手羽先を気に入って離さず、オレンジの絵の具をたっぷりつけてバンバン画用紙にたたきつけアクションペインティングを作りました(確かこの時はレストランが舞台の劇をやっていて、チキンスープを飲む体験もしました。)
この場合、完成した作品の出来はさほど重要ではありません。
上手くなったりもしません。楽しいだけです。展覧会で飾られても、人目を惹かないでしょう。
しかし、同時にこうして作った作品も、ただ捨てるわけではありません。そこは工夫して一冊の絵本にまとめて、一年の最後にお母さんに渡します。
「これは、〇〇ちゃんが一年間、美術の授業で遊んで作った作品です。それをまとめて絵本にしました。ストーリーは毎回、先生たちが目の前で演じたお芝居です。どうか、ときどき読んであげてください」
これによって、子どもたちの作品は捨てられることもなく、卒業して大人になっても「見せびらかして」褒められたり、時には「読み聞かせ」の絵本として役に立つわけです。そうすれば、美術の時間は、確かに役に立ったといえるのではないでしょうか?
まとめ
こんなふうに、感覚をフルに使って楽しめる授業、そして作品を通じて本人が他人とコミュニケーションを作るきっかけになる、そして大好きな先生と一緒に作品をつくる時間を楽しむ、というのが、私の授業の基本コンセプトとなりました。
実際、この方法が正しかったのかは、正直わかりません。私が普段、通常校の子どもや、絵がうまくなりたい大人に教えていることとは、まったく違う次元の話です。
ですが、美術という本質を体験するという点では共通している部分もあります。
さて、基本の考え方をお伝えするだけでもまた、長くなってしまいました。
肢体不自由児の具体的な授業案の紹介はまた、別の記事をかきますので、そちらをお読みください。
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