はじめまして。ヒートンこと、砂海 光と申します。
ここでは一介の公立学校の美術教師が、どうして絵心を引き出せるのか?という説明の意味をこめて、簡単に自己紹介をさせていただきます。
特別支援学校の教師として
現在、私は公立の特別支援学校で美術教師をしています。
特別支援学校とは、障害のある子どもが通う学校です。
特別支援学校は知的不自由校、肢体不自由校、盲、聾、病弱の5種類があり、私は肢体不自由校と病弱部門で一番長く教えています。
肢体不自由校にはある特徴があります。
文字通り、肢体に何かしらの障害があり、車いすを使っている生徒が多いのですが、中には歩ける子や、寝たきりで殆ど体がうごかない子どもと、非常に幅が広いのです。
同時に知的な発達段階もすごく幅があります。いわゆる発達(精神)年齢でいうと、同じ高3でも、0歳から18歳までにひろくわたっています。
もちろんグループに分けてそれぞれの発達段階にあった授業をしますが、美術の教員はたいてい学部に一人です。(特別支援学校の多くは、小、中、高等部が一緒になっています)
つまり肢体不自由校の美術教師は、一歳児でも楽しめる授業から小学生向きの図工、中学生、高校生向けの美術までの授業の内容を全て考えて、全て指導できなくてはいけないのです。
それは、すごく大変なことですが、同時に普通の美術教師の何倍もの経験を、短期間で積めるということでもあります。
おかげで、私は本当にいろんな子どもたちと出会い、その子に合うような授業をたくさん作ってきました。
そんな中で、工夫をこらし、試行錯誤と失敗を重ねて「美術とは何か、楽しい美術の授業をどうやって作るか」と悪戦苦闘してきた日々が、いつしか私の力となっていたのです。
画家を目指していた頃
もともと私は幼い頃から絵が得意で、いわゆるクラスで一番、上手い子でした。
先生や友達からいつも褒められるのがうれしく、いつしか画家になる夢を育んでいました。
そして15歳の時、親の猛反対の中、美術大学に行きたいと宣言しました。
美術大学に入るためには、美術予備校という所に通って本格的に準備をしなければほぼ確実に合格できません。
私は高2の夏休みから大手の予備校に通い始め、デッサンから習い、油絵コースに入り、絵の練習を始めました。
しかし、藝大・美大受験の世界は狭き門です。
当時、一番人気の東京藝術大学の油画科の競争倍率は約42倍。それもライバルは技術ならプロ並みの猛者ばかりです。
私は現役で全滅。一浪して朝から晩まで必死で練習したにもかかわらずやはり全滅し、二浪でようやく五美大の一つと言われる東京造形大学に合格しました。
それまでに身につけたデッサンや油絵の技術力(アカデミックな技術と呼びます)は、入学後はあまり役に立たないように見えましたが、後に意外な所で役に立ちました。
子どもとの出会い
大学に入ってからは、二浪したお蔭で技術的には、かなりのレベルに達していました。
そこで、前から興味のあった現代美術寄りの作品を制作しつつも、今後の身の振り方で迷う日が続きました。
そんな時、何かが変わるかもしれないと思い、高校時代から憧れていたインドに旅立つことを決めました。
→ベタと言われてもインドはすごい!必ず人生が変わる国
インドは外国と言うより別の時代に行ったような別世界でした。そこで、ある出来事があり、私は子どもと絵の深いつながりに気がついたのでした。
→歓びの町カルカッタ。運命を決したある出会い
現代美術にも未練はあったものの、正直言って日本で作家としてやっていけるマーケットはありませんでした。
殆どの作家が教員や予備校講師などの副業で食いつないでおり、作家として食べていけないのが現状です。
欧米のように、もっとアートが身近なものにならなければ、日本のアートに未来はない。そのためには、教育が必要だ・・・・・・そうだ、美術教育だ!
それにインドで出会った子どもたちのこともありました。
そんなわけで、私は美術教育の世界に足を踏み入れたのです。
そんな訳で私は油絵科でおそらく史上初の、油彩画で卒業するのではなく、論文で卒業するという変わった道を歩んだのです。
(卒業作品も一応作りましたが)
シュタイナー教育に出会う
大学で美術教育の論文を書くために、児童心理学を専門にしている教授の研究室を訪れ、指導をお願いしました。
「子どもの絵はなぜ、面白いか?」という著書を出しておられる素晴らしい先生でした。
そこで2人のデザイン科の同期生と共に論文執筆のためのゼミ活動を行いました。
シュタイナー教育という言葉を知ったのはその頃です。
→シュタイナー教育ってなに?基本のきほん。
私は卒論の材料にする為にも、もっと詳しく勉強したいと思い、当時、高田馬場のビルの一室にあった「シュタイナーハウス」を訪れ、勉強会に参加しました。
そこでは日本でシュタイナー学校を作りたいと考えている人達が『にじみ絵の会』や『フォルメンの会』などシュタイナー教育の自主的な勉強会を開いていたのです。
→にじみ絵の描き方
→フォルメンをどうして日本で教えていないの?こんなに大切な勉強、見たことない
フリースクールの創立に参加
その後、私は東京学芸大学の大学院でさらに美術教育を学び、そこで現代美術の世界的アーティストに会って学んだり、美術館でこどもワークショップのボランティアスタッフになったり、いろんな学校を回って美術の授業を見学したりしました。
同時にシュタイナーハウスに通いつめ、いつのまにかシュタイナー学校の教師になりたいと思うようになっていました。
そして、大学院を卒業後、英国のシュタイナー教員養成大学であるエマーソンカレッジに短期留学し、帰国後、友人の紹介で公立の特別支援学校(当時は養護学校)の講師となったのです。
それと並行してある人に誘われ、学校設立運動に参加し、とうとう3年目にシュタイナー教育を主軸にしたフリースクールを設立しました。
そこで、教師は3人、生徒は一人から始まり、次第に2人、3人、10人と生徒も増え、ドイツの本場からシュタイナー学校の教師を呼んで研修しつつ、少しずつ学校を大きくしていったのです。
この時代は経済的にはどん底でしたが、学んだこと、身についたものはかけがえのない財産となりました。
教育を離れ、介護の世界に
しかし、一生続けたいと思っていたフリースクールを、やむ負えない家庭の事情で去ることになりました。
ずっと苦楽を共にした仲間からは非難され、生徒の親からも強く引き止められましたが、私も随分悩んだ末に離れることになりました。
その後は生徒を見捨てた罪悪感から、もう一生教育とは関わらない、と決め、工場で働いたり、アルバイトをしつつ新しい職を探しました。
そして養護学校で働いていたなら介護もできるだろう、という理由で特別養護老人ホームに採用され、以後約10年近く老人介護の世界に身を置くことになります。
そして現在へ
しかし結局、どの職場でも私は美術教育をしていたのでしょう。老人デイサービスでも、私は「先生」とあだ名をつけられ、いつのまにか絵を教えたり、お年寄りの似顔絵を描いていました。
やがて、時代は移り変わり、養護学校は特別支援学校と名称が変わり、肢体不自由校に教員ではない介護専門の職員を補助員として導入し始めました。
私はそれを偶然知り、子どもと触れ合いたい気持ちを抑えきれず、懐かしさもあって応募し、第一期の学校介護職員となりました。
新制度導入の中で、教員免許も教師経験もある介護職員は貴重だったようで、学校の先生方からはとても良くしていただきました。
その中で「あなたは絶対、教師になるべきだ」と言って下さる方がいました。
私は考えた末に、もう一度、教育界に復帰する決意をして、数年後それは実現し、現在に至ります。
思えば、私はずいぶん遠回りをしたのですが、おかげで学校以外の社会人生活も経験でき、特にお年寄りの世界では滅多にできない高齢者への美術教育の経験ができたのです。
それと同時に生まれたばかりの長男も育てていましたので、まさに幼児から児童、成人から高齢者まで、ほぼ全ての年齢層へ、絵を教えてきたことになります。
だからこそ、自信を持って言えるのです。
どんな人でも、絵心がない人はいないと。
いくつになってからも、正しい指導さえあれば、必ず絵はうまくなります。
そして、自分の作品が美しい、と必ずわかります。
そうすれば、絵を描くことが楽しくなり、好きになるのでどんどん描き、ますます上手くなるという、よいサイクルに入るのです。
以上で終わりです。最後まで読んでくださってありがとうございます。