喜びの町、カルカッタ。運命の出会い。

カルカッタの町 エッセイ
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運命の岐路。運命の瞬間。運命の出会い。

あなたは、今までの人生でそんな瞬間を覚えていますか?

私の場合、それははっきりと覚えています。

場所はかつて“地上最悪の都市”とも呼ばれたインドのカルカッタ(現在はコルカタ)
マザー・テレサの施設『死を待つ人の家』でのことでした。

インドの紹介で少しだけ触れましたが、私は大学3年生の夏休みで、とあるきっかけでインドに一ヶ月の放浪の旅をしました。


宿も目的地も決めず、インドレイルパス(鉄道乗り放題券)と帰りの飛行機のチケットと僅かな現金だけを持っての、背水の陣のような旅でした。

 最初の2週間は試練の連続で、騙され続け何度も危険な目に遭いました。
少し慣れてきた3週間目に油断もあり最大のピンチに襲われましたが、それも命からがら切り抜け、ようやく旅の最終目的地であるカルカッタにたどり着きました。

コルカタでの日々

今は判りませんが、25年前のカルカッタはインドの数ある都市でも相当評判の悪い方でした。

確かに旅行者向けの安宿の集まるサダル・ストリートにはガンジャ(マリファナ)を売る商売人がウロウロしていますし、ラッシーにガンジャを混ぜて飲ませる店も普通にありました。

ちなみに、私は国によっては合法だとしても誘われても大麻類は一切拒否しています。

というのは、私は中学時代に空手に出会ってから大山倍達に心酔していたこともあり、薬物やお酒の力で自分を変えようとするのは武士として卑怯なり、と思っていたからです。

それはさておき、カルカッタの町は確かに相当、猥雑で混とんとしており、日本で例えるならば歌舞伎町をもっとワイルドにした感じでした。

ところが、すっかりインド慣れしていた私にとって、ここは信じられないほど居心地よい街だったのです。

このうだるような暑さがたまりません

例えばある日の過ごし方です。

 朝起きて、通りをブラブラしていると、お約束のように商売人(笛とか大麻を売りつける)が寄ってきます。
日本のように無視し続けるだけではあきらめないので大声で「チャーロー!(どっか行け!)」と怒鳴りつけて追い払います。

朝ご飯代わりに、素焼きのコップでチャイを飲みます。
ついでにインドのコロッケ風スナック、揚げたてのサモサを買って、ほおばります。

ちなみに、みなさんはインドレストランでサモサを食べたことはありますか?

二つで500円くらいする日本のサモサですが、インドではたぶん50円くらいだったと思います。

しかし、その味の違いといったら・・・。

インドカレー自体は日本でも美味しいと思うのですが、サモサとマンゴーとラッシーだけは、インドのあの味が再現できないのが、不思議でたまりません。

 それほど、インドのサモサは美味しいのです。

サクサクの皮に、スパイスの効いたジャガイモの具・・・サモサだけ食べに、もう一度インドにいきたいくらい。
あれ以来、日本でサモサを食べ続けましたが、未だに本場の味と出会ったことがありません。

 話はそれましたが、ある時ドミトリーで知り合った日本人と屋台のチャーメン(ネパール風焼きそばだったかな?)を食べながら夕暮れの町を眺めていてふと思いました。

「あれ?・・・今、どうしてこんな幸せな気分なんだろう?」

この猥雑な混沌としたカルカッタの町で、スリルと隣り合わせで生きているだけで、なんてワクワクするんだろう?

気を抜けば、殺されるかもしれないこの町。全てがリアルで、直接的なインドなのに、毎日が楽しくて、たまらない。

 不思議だなあ・・・日本では、こんな感覚、ほとんど味わったことがなかった。
もしかすると人間は、危険を感じてないと生きる実感を味わえない生き物なのかもしれないなあ、と感じました。

もちろん、危険や怖いことばかりでなく、普通のインド人は底抜けに明るく、人懐っこいので、その元気が、いつのまにか感化していたのもあります。

カルカッタではよく友達と映画館に映画を見に行きましたが、大騒ぎしながら観るインド映画は最高でした。

毎日、大笑いして、ホロリと泣いて、アクションシーンで拳を振り上げて興奮して・・・ちなみにインド映画ではなぜかカンフー的なアクションがとても多く、私が空手をやっているというと「見せて見せて!」と子どもによくせがまれました。

死を待つ人の家

 そんな充実した日々の中、ある若い日本人と出会いました。


 私と同世代の大学生のサカイ君は(同姓で字が違った)お姉さんとインドに来ており、目的は『死を待つ人の家』で、ボランティアをする為だ、と教えてくれました。


 お姉さんはちょっと高いホテルに泊まっており、彼は私と同じ安宿(サルベーション・アーミー)に泊まっていたのです。

死を待つ人々の家 私が行った頃はもっと薄暗かった

私も『死を待つ人の家』には興味があったので、渡りに船とばかり、翌日、一緒に連れて行ってくれ、と頼みました。彼は快く、引き受けてくれ、翌朝、私たちは都電に乗ってカーリーガートと呼ばれる地区にでかけたのでした。

はじめて行った『死を待つ人の家』は、ボランティアでごった返していました。

その日、ボランティアを希望する人は受付のようなものをすませ、今日はこの仕事をしてくれ、とアメリカ人のボランティアリーダーに言われました。

今思うと、私の英語力でよくできたなーと思うのですが、当時は丸々一か月、ほぼ英語しか喋っていなかったので、かなり上達していたのでしょう。

同じボランティアでフランス人がいたのですが「僕は英語が下手なんだ・・・君は英語ができて、うらやましいよ」としょげた声で言われて、不思議な気分でした。

彼によると、フランス人はプライドが高くて世界中フランス語で通すので、意外と英語ができないそうです。

そこでやったことは、もはやうろ覚えなのですが、うすぐらい大きな部屋のなかに、一人一人の寝床がならんでいます。上の写真では結構きれいですが、もっと薄暗かった印象があります。

 たしか、大きく女性と男性、重症の方と部屋は別れていたように思いますが、個室ではなく、こまかい仕切りもありませんでした。

何十もの寝床が並んでおり、そこで排せつ交換をしたり、食事をしたりするのです。シャワーは別室があったような気がします。

 私は初日、洗濯物を絞る作業を受け持ちました。

建物の屋上にいって、二人一組で衣類を思いっきりねじるのです。
両端に立って、シーツや服を順番にしぼって、屋上のひもに干していきました。

こんな時も片言の英語で世界中のボランティアの若者と仲良くなれました。
ある日、北欧のどこかから来た可愛い若い女の子と仲良くなり、彼女が一つだけ日本の歌を知っている、と「どんぐりころころ」を歌ってくれました。

しかし意味が分からないので教えて、というので「えーと、ナッツが池におちて、フィッシュが出てきて、ハローと言った」と答えると「なにそれ、おかしい」と大笑いしてたのを覚えています。

初日はちょっと緊張していたのですが、とても楽しかったので、それから毎日ボランティアに通い始めました。

食事を用意する仕事、汚れたベッドを洗う仕事、いろんなことをしましたが、慣れてきたときに「今日は治療のグループにまわってくれ」とリーダー格のドクターに言われたことがありました。

 彼が患者の包帯とガーゼをとって、たまった膿をピンセットでとり、脱脂綿で消毒してガーゼをかける、というのを教わって、私と医大に通っている日本人の若者とおそるおそるやっていきました。

彼は「大学でもこんなこと、したことない!」と驚いて、私もこわごわでしたが、なんとかこなしました。

後に私は介護の仕事をすることになるのですが、そこでは医療行為として、介護士ができることは厳しく制限されています。
時々、インドでのことを思い出して「人が少ないんだから、仕方ないよなあ・・・日本は不便だなあ」と思ったりしました。

洗濯などの仕事の後は、入居者とゆっくり過ごして会話したり、言葉が通じないおじいさんにマッサージしたりするのですが、ある時、担当にされた部屋に7歳か8歳くらいの二人の男の子がいたのです。

子どもと出会う

 彼らの名前はガンガーと、マンガーと教えてくれました。彼らがどうしてこの施設にいたのかはわかりませんが、おそらく親に捨てられ路上にいるのを保護されたのでしょう。

 この施設に子どもは少ないので二人はとても仲良しで、私ともすぐに打ち解けました。ただ、狭い施設の中、二人は遊ぶこともできず、おもちゃも一つか二つだけしかなく、とても暇そうでした。

私は小さいスケッチブックを常に持ち歩いていたので、それを見せて「絵をかかない?」と誘いました。

二人は日本のことをききたがり、私は英語で伝わらないところは絵を描いてせつめいしました。
忍者、富士山、東京タワー、ゴジラ・・・とにかく、彼らはそれほどうまくない私が描く絵に夢中でした。(私は基本、モチーフを見ないと描けないのです)

私の持っていたエンピツで、彼らもたくさん絵を描きました。その様子がなんとも楽しそうで、私は自分が絵を描き始めた頃のことを思い出していました。

そして私はこの時、かつてないほどの充足感を感じている自分に気がつきました。

こんなかんたんな絵を描いて、ちょっと絵を教えて、こんな喜んでくれる子どもがいる。・・・・・・これって、なんて素敵な仕事だろう?

今までは、絵は自分の為にしか描いてきませんでした。

受験で誰かに競争で勝つため。よりうまい絵、より強い絵、より優れた絵をかいて、売れっ子の、できれば有名な画家になることが絵を描く目的でした。

でも、私が絵を描き始めた頃は違っていたはずです。

ただ、ただ楽しかった。

自然の美しさに感動し、それを紙に写していくだけで、時を忘れ、一生絵を描いているだけでいい、と思うくらい幸せだった。 

それを、いつの間にか忘れていたことに気がついたのです。

今は目の前にいる子どもが、こんなに喜んでくれる。
他に何もないこの場所で紙とペンがあれば、想像力を膨らませて、子どもはどこへでも行ける。何でもできる。

そうだ

これから僕は子どもにアートを伝えよう。ぼくが今まで積み上げてきたことが、こんなふうに役に立つなら、もっともっと教育とやらを勉強してみよう。

・・・こうして、その時から私は美術教育への一歩を踏み出したのです。

まだ、具体的には何をしたらいいのか、まったくわからない状態でした。それでも、はっきりと私はなぜインドに来たのかを悟りました。

 (この子たちに出会う為に、本当の自分を見つける為に、ここに呼ばれたのだ)

これが、私の大人への第一歩だったのだと思います。

成人の儀式。イニシエーション。

 ・・・とはいえ、それからも色々な出来事がありました。夢も二転三転し、一時は教育界から身を引こうと決心したこともあり、介護の世界で長く働いたこともあります。

しかし現在はなんとか、美術教師として活動することができています。

その原点はここにあったと、書いていて、改めて思いました。

運命の出会いはきっとある

 もし、あなたが『そんな瞬間は、まだないよ』と思うなら。

 こんど、いつか、旅に出てみませんか? 
(もちろんインドでなくてもいいんですよ)

 そこには人生を変える運命の出会いが待っているかもしれません・・・いいえ、必ずまっていると思います。

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